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紀南Good

非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるか(1)

Update 2022年8月31日

♦非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるか(1)

♦非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるか(2)

♦非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるか(3)

♦非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるか(4)

※この記事は、スピリチュアル関連、神事、仏事などに、全くと言っていいほど知識のない人間によって書かれています。出てくる単語に関しても、意味をきちんと把握せずに使用している場合もあることをご了承ください。誤用している、もしくは、説明の必要な単語や文は記事の最後に解説を入れ、間違いなどがあれば学びを深め、次の回に進めていきたいと思います。また、無知であるからこその偏見も多分に存在することにもご注意いただければと思います。どうぞ存分にツッコミを入れつつ、読んでいただければと思います。


私は、スピリチュアル※1とは全くと言っていいほど無縁な人生を送ってきた。占いとか、お祓いとか、墓参りとか、気にならないわけではないけど、なんとなく二の次、三の次、というふうにとらえていた。縁起とか、吉凶とか、厄とか、お守りとか、ご先祖様とか、気にしない方がむしろふりまわされず、心穏やかでいられるんじゃないの?そんなふうに思っていた。

私は山形県山形市出身で、東京で学生時代を過ごし、卒業してからも長いこと東京近辺をうろうろしていたが、ひょんなきっかけで和歌山県串本町へと移住した。

移住してすぐに知ったのだが、串本を含む熊野地方はスピリチュアルな人々にとってはパワースポット※2、とされる場所の宝庫であることを知った。そして、徐々に増えていった移住者を中心とした友人、知人には、スピリチュアルとされる物事に関心があるタイプの人が多かった。

しかし、私は熊野に移住して10年が経っても、観光地としてもパワースポットとしても有名な那智大社にすら参ろうとさえしないスピリチュアル音痴のままだった。車でほんの1時間ちょっとの場所に住んでいるのに。

移住者仲間を中心に増えた知人の、SNSの投稿にはかなりの頻度で神社や滝などの美しい写真など、すごくスピリチュアルな感じの投稿が目立つ。

そんなSNS上の世界を日々見ていると、自分は完全にマイノリティの側であるように感じられてきた。

厄払いなんてしたことない。神社にも寺にももう何年も行っていない。墓参りはいつ行ったか忘れた。滝を見に行ったりもほとんどしない。そして、そんな状態に自分ではほとんど不足は感じていないのだ。

私がこんなにスピリチュアルではないのは、家庭環境も相当影響していると思う。

農家の次男である父と、同じ肉屋の養子同士だった両親から生まれた母からなる夫婦は、見る限り仏事や神事にほとんど関心がないようだった。私が学生になって東京に出て、バイト先などで「お盆はいつ実家に帰るの?」と聞かれても、お盆が果たして何をして、どの期間のことなのかいまいち分からなかったほどだ。

神事に関しては仏事よりさらに縁がなかった。両親が家を買ったのが河原だった土地を開拓してできた新興住宅地だったということも関連しているとは思うが、地域の祭りは皆無。神輿や獅子舞などは、熊野に来るまで私は全くと言っていいほど見たことがなかった。そして、両親は私たちを初詣に連れていくという習慣もなかったし、七五三も完全にスルー。もちろん神棚など存在しない。

とくに、母の方は仏事にもかなり無頓着だ。父は割と早くに両親を亡くし、戒名の書かれた札※3と写真立ての乗った仏壇、と呼ぶにはあまりにもちっぽけな棚みたいなものにご飯を備えてチンチンと鳴らし、一応拝んでいるらしいのだが、気の毒にこの棚はいつも洗濯物の影になっている。

実家の仏壇?であり洗濯物干し場。
これはもう、スピリチュアルかどうかだけでなく、美的感覚にも相当問題があるような。

母がそこで拝んでいるのは見たことがない。拝むべき対象に亡くなった自らの両親が加わっても、同じことだった。備えているご飯がしょっちゅうカチカチに乾いていて、父がブツブツと文句を言っている光景を今までに何回見たことか。

そんな環境で育ったわけだから(とは言え、もうかなりの良い年だが)、神事だの仏事だの、祈りだのスピリチュアルだのに関心が薄く、知識がないのはしょうがない、と割り切ってしまうこともできないわけではない。

しかし、である。実は、両親に関係することで、最近気になることが出てきたことをきっかけに、いわゆる、魂など、目に見えないものの存在について考える機会が出てきたのだ。

私の両親は、2人そろって献体への協力を申し出ている。きっかけは、母の両親が同じく献体に協力したことだったと思う。

母方の祖父が亡くなった時、葬式はせず、自宅で亡くなった彼の亡骸を数人で囲み、別れを惜しんだだけだった。そして、棺が運び出されて向かう先は火葬場ではなく、大学の医学部だった。

叔父と母、そして私たち兄弟はただ黙って、棺を見送った。そんななか、義理の叔母だけが遺体を運ぶ業者に、涙声でこんな言葉をかけていたのだ。

「ちゃんと他の骨と間違えずに、返してくださいね」

祖父とは血縁のない彼女のその言葉に、もしかしたらなにか大きな間違いを犯しているような、そんな気がしたのを覚えている。

私の両親も死んだらその時のように献体として、運ばれていくのだ。

私は両親が死んだら、両親の希望通りであれば構わない、と、割り切って彼らの遺体を見送れるだろうか?遺骨がいつ帰ってくるかわからないという状態をどう思うだろう。そして、彼らの遺体はどのように扱われるのか?

想像すると胸が詰まるような気分になるため、この件に関して考えを深めることさえできないでいる。しかし、このまま時が過ぎ、両親の死を迎えても良いのだろうか、と思うのだ。

数年前、一度だけ母親に、献体を取りやめる提案をしてみたものの、非常に空気が悪くなった。同じく自分の両親を献体として見送った母からしたら、自分の選択を否定されたような気がしたのかもしれない。

もし、魂があるなら、それは遺体とは無縁なのだろうか?身近な存在をなくした時、私は何処かで祈りたいと思うだろうか。心で思うだけでいい、そんな気もするけれど、いざその時になってみたら考えは変わるような気もしている。

冒頭からとんでもなく重い部分に踏み込んでしまったかもしれない。

とにかく、スピリチュアルについて、少し考えてみよう、お近づきになってみよう、と私が思い立った理由の1つは、自分が非スピリチュアルであることへの勝手なちょっとした疎外感。

2つめは両親の献体の件。

3つめは、ご利益があるなら是非!という完全なスケベ根性である。

今一度胸に手を当てて考えてみれば、3つめのパーセンテージは結構高そうだ。

※1 スピリチュアル : 「デジタル大辞泉」には「[形動]精神的な。霊的な。宗教的な」とある。私の使い方は、おおよそ合っていると思われる。しかし、改めて意味を確認しても、まだ私にはスピリチュアルとはなんなのか、よくわからない。しかし、わからないくせにはわりと頻繁に使い、便利な言葉でもあると感じている。

※2 パワースポット : wikiによると、「地球に点在する特別な”場”のこと」とある。また、同じくwikiによると、博物学研究家で妖怪評論家の荒俣宏氏は「大地の力(気)がみなぎる場所と考えるとよい」とし、「昔から大地の力を得ようとする試みはあった」と指摘、「日本で言えば熊野三山詣がとても古い事例である」と説明している。

※3 戒名の書かれた札:調べたら、位牌、とある。なるほど、聞いたことはある。表面には戒名を書き、裏面には俗名や亡くなった年月日、享年を書くそうだ。知らなかった。

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非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるか(2)
ご利益を期待しつつ、非スピリチュアルな私がスピリチュアルな行動をしようと向かった先は、、、?

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♦非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるかパート2 〜自然崇拝=0円?篇(1)

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♦非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるかパート2 〜自然崇拝=0円?篇(3)

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