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紀南Good

非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるかパート2 〜自然崇拝=0円?篇(1)〜

Update 2022年9月2日

♦非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるかパート2 〜自然崇拝=0円?篇(1)

♦非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるかパート2 〜自然崇拝=0円?篇(2)

♦非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるかパート2 〜自然崇拝=0円?篇(3)

※この記事は、スピリチュアル関連、神事、仏事などに、全くと言っていいほど知識のない人間によって書かれています。出てくる単語に関しても、意味をきちんと把握せずに使用している場合もあることをご了承ください。誤用している、もしくは、説明の必要な単語や文は記事の最後に解説を入れ、間違いなどがあれば学びを深め、次の回に進めていきたいと思います。また、無知であるからこその偏見も多分に存在することにもご注意いただければと思います。どうぞ存分にツッコミを入れつつ、読んでいただければと思います。


日本では「八百万の神」※1と古くから言われ、山や木、那智の飛瀧神社のように滝などを信仰の対象にしていた、というのは非スピリチュアルな私でも聞いたことがある。そしてその考えは、お参りやお墓参り、七五三や厄払いなどの、神社仏閣で行われる行事をことごとくすっ飛ばしてきた私には、何となく都合が良いように思えた。

自然崇拝※2、いいじゃないですか。それならお賽銭とかいらないだろうし。

そんな考えの私に、とんでもなくぴったりの神社がなんと、自宅から徒歩5分ほどのところにあることを知ったのは、今の家に引っ越してきてから4年が経ってからだった。

「矢倉神社」は社殿のない神社なのだそうだ。

そう言えば、何もないところに秋祭りの時期になると長―い旗みたいなの※3がたつ場所があるので、不思議に思っていたのだ。

1月初めに那智へ初詣※4に行き、すっかりスピリチュアルづいてきた(?)私と次男は、お散歩がてら初詣第2弾に行くことにした。たしか、初詣は自分の住んでいるところの近くの神社に行くのが良い※5って聞いたことがあるし。

1月にしては暖かい日差しの中、てくてくと歩いていく。いつもは車で走りすぎることの多いご近所の、非常にのどかな小道をしばらく歩く。そして、集落内を川沿いに、南北に通る道に出て「庚申橋(こうしんばし)」※6という橋を渡り、上流に向かって少し進むと、矢倉神社の入り口とされる場所に着いた。

 場所は知ってはいたものの、本当にここなのだろうか、と不安になるような入り口である。空き家のすぐ脇を藪の中に入っていくような感じで、立て看板などは何もない。

恐る恐る進んでみると、たしかに人が通れる広さに道が舗装されている。

時代を感じる石積みが大きな木の周りにぐるりとめぐらされているのを横目に見ながら、数歩進む。するとすぐに、鬱蒼とした樹々の中、御本尊※7らしきものが正面に見えた。

崖状になった山肌の前に、石造りで四角く土台が作られている。そしてその両サイドに石灯籠、正面に白い紙のギザギザのやつ※8が1本立っているだけという潔さ。

「明治20年11月建立」とある。2022年現在からは135年前のものということになる。

社殿がないのはわかっていた。しかし、社殿がない代わりに、これがここの崇拝の対象だなとわかりやすい、例えば、けたはずれに太い御神木や立派な岩かなにかがあるのかと思っていたのだ。

たしかに、土台の周りには立派な木が何本かダイナミックにそびえてはいるが、びっくりするほどの巨木、というほどではない。

ここでメインとして祀られている※9のはなんなのだろう。

 とは言え立派な木である。ツタの感じがラピュタ風。
先ほどの写真の木の上の方。この木と、次の写真の杉の木が特に大きい。
こうやって改めて見るとどちらの木も十分に御神木レベルの大きな木に見える。
しかしどの木もわりと立派なので、これがメイン、と絞りきれないものがある。

※1 八百万の神 : 「日本大百科全書(ニッポニカ)」によると歴史学者・神道学者の坂本是丸氏は八百万の神について、以下のように述べている。 「神道で数多くの神々の存在を総称していうもので、実際の数を表すものではない。文献上の初見は『古事記』上巻の『天の岩戸』の段にある、『八百万神、天の安の河原に神集ひて』である。(中略)。本居宣長は『古事記伝』で、『八百万は、数の多き至極を云(いへ)り』と述べている」。 八百万は小学生が口走りがちな「100万円」くらいの大きな数ということなのだろう。

※2 自然崇拝 : 「日本大百科全書(ニッポニカ)」によると文化人類学者の瀬川昌久氏は自然崇拝について、以下のように述べている。 「自然物、自然現象に対する尊敬や畏怖の態度の総称。naturismの訳語として用いられる。一般的には天体(太陽、月、星)、気象現象(風、雨、雷)、諸地形(山、川、海、湖)などから、人間以外の動植物や岩石に至るまで崇拝の対象範囲は極めて広い。ただし、稀に動植物を除外し、非生物的な物体、現象に対するもののみを指す場合もある。(以下略)」。 非生物的な物体や現象に対するもののみ?それでも自然崇拝と呼ばれるものはなんなのか。なんだろう。非常に気になる。

※3 長―い旗みたいなの:のぼり旗、というものらしい。 そういえば私の集落では祭り前になると天満神社への寄進が徴収される。神社への寄進なんて経験がなかった私は、ひとくち1,000円と言われたので1,000円支払った。するとのちほど、集落の世帯主一覧の名簿が配られ、そこに私の名前も記載されていて、「500円を〇〇(何かは忘れてしまった)代、500円を旗代と書かれていた。そして、私と同じ金額で済ませていた世帯は1つか2つ、多いところは1万円以上は出していたように思う。 ずいぶんと赤裸々なあの名簿はその後配られていないが、さすがにクレームでも入ったのだろうか。

※4 初詣:「京都地主神社」のサイトには、「その年初めて神社仏閣へ参り、新年の無病息災や平安無事などを祈ることで、元旦早朝から行われることが一般的」とある。 なるほど、初詣は神社、と思い込んでいたが、寺でも良いのだ。そして当然のことながら、初詣第2弾はありえないのだった。

※5 初詣は自分の住んでいるところの近くの神社に行くのが良い:「テレ東プラス」のサイトで和文化研究家の三浦靖子氏は初詣の基礎知識として以下のように述べている。「本来は氏神(うじがみ)様や菩提寺に新年のご挨拶に行くこと。基本的な順序としては元旦に年神様を家にお迎えし、それから氏神様へご挨拶するため初詣へ。(以下略)」とある。また年神様について「北海道神社庁」のサイトには、「お正月に家家に迎え祀る歳徳神(としとくしん)は歳神(としがみ)さま・お正月さまなどとも呼ばれました。(中略)現在でも残る正月の飾り物はもともと歳神さまをお迎えするものであります。門松は年神さまが来訪するための依代(よりしろ)であり、鏡餅は年神さまへのお迎えでありました」とある。どうやら、家に門松と鏡餅を飾ってからの初詣、というのが正式な流れらしい。氏神について「阿佐ヶ谷 神明宮」のサイトには、「氏神とは、もともと古代社会において血縁的な関係にあった一族がお祀りした神さまをいいました。しかし中世においては土地の神さま、つまり、鎮守(ちんじゅ)の神様である産土神(産土、うぶすなとは生まれた土地という意味で、その土地を守護してくれる神さま)までが、氏神と混同されるようになりました。そうしたことから、必ずしも氏神は祖先神、あるいは守護神を祀るものばかりとは限らなくなったのです」とある。菩提寺は「精選版 日本国語大辞典」によると、「一家が代々その寺の宗旨に帰依して、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺」である。父は農家の次男で生まれた村から離れて家庭を築いたし、現在私は産まれた県を離れた移住者だ。そして、祖父母の代からの非スピリチュアル系なので、私には本当の意味での氏神はいないし、菩提寺もないが、この場合の初詣はどこへ行けば良いのだろう。数年住んで愛着のある自宅の近くの神社なら、私の「氏神さま」と思って構わないだろうか。

※6 初詣は自分の住んでいるところの近くの神社に行くのが良い:「西新井大師」ホームページによると「護摩木は仏様へのお供え」とある。しかし、私が行ったのは、確か神社、、、。混乱してくる。しかも「一本一本にお名前とお願い事を皆様ご自身でお書きいただき、奉納されたものが当山の護摩祈願(炉の中に護摩木を井桁に組み上げて焚き、〜中略〜、除災招福、開運厄除の成就をお願いする秘法)に使われる」とある。私たちはただ護摩木を買い、すぐに燃やしたのだが、あれでよかったのか?

※7 庚申(こうしん):「屋敷神の世界―民族信仰と祖霊」などの著作がある佐々木勝氏は庚申信仰について以下のように述べている。 「十干十二支の組み合わせの一つで、60日または60年ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の日に営まれる信仰行事。元来は道教の三尸(さんし)の説に端を発している。 人の体内にいる三尸という虫が、庚申の夜に人が眠るのを見澄まして天に昇り、天帝にその人の罪を告げる、すると、天帝はその人を早死にさせるというのである。したがって、長生きするためには、その夜は眠らないで身を慎むのである。 (中略)民間にも広まり、村落社会の講組織などと結びついて仲間と共に徹夜で庚申の催事を営む習俗である講庚申や庚申待といった形で定着してくのである」。 近所の庚申橋のすぐそば近くにはたしかに庚申様だという石像が祀ってある。あの場所で仲間と徹夜する習慣があったのかと思うと感慨深い。なんだかちょっと楽しそうだ。

※8 御本尊:本尊については「日本大百科全書(ニッポニカ)」には、 「寺院や仏道において供養・信仰の対象となる主尊たる仏・菩薩像のこと」とある。ということは、私が行ったのは神社だし、そもそも何も像などはないのだから御本尊というのは違う。 神社には「本殿」というものがあるようだ。同じく、「日本大百科全書(ニッポニカ)」によると本殿は、 「神社の社殿のうち、「神霊(しんれい、神のみたま)」を安置した中心の建物のこと」である。ということは、私が使うべきだった言葉は、神霊、英訳すれば「Spirit」の安置された本殿なのだ。

※9 白い紙のギザギザのやつ:「紙垂(しで)」というのだそう。日本文化研究ブログには、 「天照大御神を天岩戸から誘い出すためにお祭り騒ぎをする際、榊の枝に木綿(もめん)のの布と、麻の布を垂らしたことが由来」とある。 紙垂の始まりはパーティのデコレーションだったということだろう。

※10 祀られている:祀るとか祀られるとかここまで簡単に言ってきたけれど、そもそもなんなのだろう?確認しておきたくなった。 「デジタル大辞泉(小学館)」には以下のように書いてある。 1.儀式をととのえて御霊をなぐさめ、また、祈願する。 2.神として崇め、一定の場所に安置する。 3.上位にすえて尊ぶ。 なるほど。私も1回くらい祀られたいかも。

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非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるかパート2〜自然崇拝=0円?篇〜(2)
次回は、いよいよ、お参り。ところで、お賽銭は?

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♦非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるか(3)

♦非スピリチュアルな私がスピリチュアルに行動してみたらどうなるか(4)

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